煽り運転
「煽り運転」と聞いてどんな運転を思い浮かべますか?私の感覚では、「前走車との車間を極端に詰めて追い回すような運転」、つまり「早く行け!」「どけどけ!」というような吹き出しがぴったりはまる意地悪運転です。時にはハイビームにしたりクラクションを鳴らしたりといったこともあるでしょう。
しかし、最近ではそれ以外の行為も「煽り運転」に含まれるようになりました。例えば、幅寄せとか前に割り込んでの急ブレーキ、速度を落としての蛇行運転、あるいは高速道路上で無理やり後続車を停車させるといった行為。ニュースではこうした行為も煽り運転として取り上げられています。取り締まりを強化する過程で対象となる行為を明示していった結果、言葉の解釈が拡大されて来た、と理解しています。きっかけとなった痛ましい事件は記憶に新しいところです。
平野は運転歴40年のライダー/ドライバーですが、これらをすべて「煽り運転」という言葉でくくるのは違和感があります。幅寄せ、割込み、蛇行運転は意地悪運転であり危険運転ではありますが、「早く行け!」「どけどけ!」という吹き出しは合いませんし、昔からの「煽り運転」という言葉の意味からは外れているように感じます。いっそ、「嫌がらせ運転」とか「挑発運転」とか、これまでになかった呼び方をしてくれた方がしっくりくるなぁ、と。
おそらくは、「煽り運転の取り締まりを強化する」という表現と方針が先に決まっていて、「どのような行為を取り締まりの対象とするか」を後から付け足していった結果なのでしょう。言葉の意味が恣意的に拡大された例のひとつと言えます。
時代のニーズに応じて言葉が再定義されていくのは自然なことですが、その変化があまりに恣意的だったり急だったりすると、感覚的に付いていけない人が出てきます。また、翻訳屋としても、急激な変化は大問題。それまで使って来た定番訳が、使えなくなってしまうのですから。
「煽り運転」の場合、これまでの定番訳は tailgating でした。tailgateは、いわゆるクルマのハッチバックドアのこと。上にはね上げるように開くドアです。「前車の tailgate を付け狙うように車間を詰めて運転する」という意味で、動詞としても使うようになったものです。言葉自体が「車の後方」を意味してしまっているので、日本語の「煽り運転」のように解釈を拡大することはそもそもできませんし、英語圏でそのような拡大解釈をする動きももちろんありません。「煽り運転」を機械的に tailgating と訳すことは、できなくなってしまったのです。
再定義版の「煽り運転」に近い意味を持つ英語は road rage です。rageは「激怒」や「暴力」を表す名詞で、直訳表現としては「路上の激怒」「路上の暴力」となります。「運転」を意味する単語が入っていないので、対応する日本語としてはどちらかというと「煽り運転」よりは「交通トラブル」の方が近いものでした(語感的な激しさはかなり違いますが)。
road rage は名詞オンリーの語であり、動詞としては使えません。「煽り運転された」は以前は単純に I was tailgated. と言えたのですが、road rageを使うなら I fell victim to road rage. のようにちょっとひねった表現になります。また、本来が「運転」を意味する言葉ではないので、再定義版「煽り運転」の訳として常に使えるというわけでもありません。
また、「挑発的運転」という意味で、provocative driving という言葉もあります。これなら、tail gatingから割込みや蛇行運転まで、さまざまな「運転」が含まれます。road rage の方が遥かによく見る表現ですが、「煽り運転」の訳として直訳的で使いやすいのは provocative driving。でも、日本語の「挑発的運転」と同じで、そんなに目にする言葉ではないんですよね…。工夫して road rage を使った方が、英語として自然な文になるでしょう。
ある言葉の意味が変化した時、その定番訳の意味も自動的に同じように変化してくれれば楽なのですが、そんなことはあり得ないでしょう(国際学会で専門用語の再定義がされた、なんて状況ならあり得ますが)。当たり前のことですが、いつもと違う意味で使われている語には、いつもの定番訳は使えません。「ちょっと定義を変えますよ」とエライ人が決めてしまえば、翻訳者は右往左往するのが定めなのです。